#010-Awich

#010-Awich

Instagram:@awich098

沖縄県出身のラッパー。2006年ソロデビュー、同時期に渡米。20071stアルバム『Asia Wish Child』をリリース。翌年、米国人と結婚、長女を出産。インディアナポリス大学で学士号を取得。家族での帰国を検討していた矢先、夫が他界。その後娘と共に沖縄へ帰郷。長い自問自答の日々を過ごし、本格的に音楽活動を再開。2017YENTOWNに加入、10年ぶりのフルアルバム『8』を発表。一躍話題を呼び、Red Bull×88risingによる長編ドキュメンタリーにRich Brianらと並び大きく取り上げられる。20203rdアルバム『孔雀』を発表、同年メジャーデビュー。20224thアルバム『Queendom』を発表、武道館ワンマン公演を完遂。名実ともに日本が誇るトップアーティストとなる。 

 

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誰だって見えない未来が怖くて、希望や絶望を繰り返して生きてきた。今やガールズエンパワメントの象徴として、クイーンとしてシーンに君臨するAwichだってそうだ。たくさんの闇を乗り越え、ここまで辿り着いた今思うこと。そして、その先へ。クイーンのクイーンたる所以を、まずは軽やかに、徐々に精神性やその信念の根底を垣間見ていくインタビュー。Awich、2022年の現在地点をここに残します。

 

*このインタビューは2022年11月30日に発売されたVI/NYL #010のために実施されました。

 

ー今回、VI/NYL初登場にして30Pの大特集。4thアルバム『Queendom』が出てからもう時間も経っていますし、“紙の媒体に軌跡を残す”という意味合いも含め、あらためてご自身のキャリアや半生を一緒に振り返れたらと思います。1986年、那覇市生まれ。ご自身が生まれ育った家族構成から教えてください。

お父さんとお母さんと3人で暮らしていました。お父さんの前妻に子供がいて、腹違いのお兄ちゃんが2人いるんですけど、一緒に住んだことないです。

ーSNSの発信でも拝見しましたが、その頃かなりイケメンで話題だったそうですよね。

自分で言うのもなんですけど、イケメンでした。私が小学生の頃『木曜の怪談 怪奇倶楽部』(フジテレビ系ドラマ)が流行ってて、タッキー(滝沢秀明)が主演デビューして話題だったんですよ。彼のぼる君って役だったんですけど、私と完全に同じ顔で。その頃タッキーも女の子っぽい時期で、私も見た目が男だったからちょうど同じくらいの感じ。マジで。例えばファストフード店とか行って「これとこれください」って注文しようとして、パッとレジのお姉ちゃんの顔見たら「キャー! どっきり番組?」みたいな反応してて。

 ーこっちは一瞬、意味わからないですよね(笑)

そう、だから「はっ?」ってリアクションしたら、向こうも違うってことに気付いて冷静になるみたいな。そんなの本当にいっぱいあって。お父さんがテニス部の監督だったんですけど、遠征で県外とかに行ったりするじゃないですか。それで電車とかに乗ったらもうマジやばかったっすね。一緒の車両の女の子が騒ぎ始めて、それを見たたぶん同じ学校の男の子たちが「お前らうっせー」みたいに喧嘩し始めたり。小学校では、高学年のお姉ちゃんたちにめっちゃ“のぼる君!”って言って追いかけられるし。しょっちゅう。

 

ー当時のご自身の性格はどうだったんですか?

 “ウーマクー沖縄弁)ってなんですっけ、おてんばっていうか、やんちゃ? 小学校時代はずっとただのやんちゃでした。

ー自分自身、その頃と変わらないなと思う部分はありますか?

海見たら飛び込む。

ー今も?(笑)

絶対に飛び込みます。水を見たら飛び込んじゃうっす。

ー沖縄の人って、意外と海入らない人多いじゃないですか。
そうですね。でも私はめっちゃ入ります。今でもそうですね。

 

ー友達はどういう子が多かったですか?

男の方が多いっすね。女の子の友達はあんまりいない。なんか、女の子の友達いても男の子っぽいっていうか、サバ。

ーサバサバ系?

いや、サバイバル系(笑) サバイバル系のギャルたちが多いんです。“おっす!”みたいな。ガーリー系の友達はマジいないですね。

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ーでは、すごく他愛のないこと聞きますけど、自分を動物に例えるなら?

犬みたいですね。でも、根はたぶん真面目っていうか、根暗な部分も結構あるんです。小学校4年生ぐらいから、ずっと夜眠れなかったんです。

ー夜が怖かった、みたいな発言は拝見しました。

どっちが先かわかんないですけど、怖くて眠れなかったのか、眠れなくて怖かったのか。今思ったらわかんないんですけど、今でも不眠症なんです。眠れない。脳がおさまらん。

ー覚醒してる、思考が止まらない感じですか?

止まらないですね。だからマジで眠れないんです。

ーそれって、アウトプットが追いついてないんですかね?

追いついてないと思います。

ーそういうことですよね。おそらく思考が溜まっていて、曲とか絵とかに出すアウトプット量が追いついていない。溢れる量の方が多すぎるってことですよね。

そうです、ずっと溢れてるんです。上手く出せてないのかもですね、最近も結構眠れない日があって。昨日も朝4時くらいまで眠れなかったですね。深夜2時ぐらいにベッドに入ったんですけど、眠れなくてもう無理だと思って起きて。時計見たら4時でした。

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ー思考が止まらない感じと同じように、妄想が止まらない感じもあります?

妄想もめっちゃありますね。良いのも悪いのも。あと、その妄想に対して自分の中でどういう感情が浮かんで、湧いてきてるかとかも考えます。

ーなぜ私はこうなってるんだろう? と、さらに自分を俯瞰的に見るんですね。

私はこの感情を、今このくらい感じてる。それって前と比べてどうなんだろう? とか、その感情のおかげで行動がコントロールされてるかも、みたいなこととかを一生堂々巡りで考えてる。

ー主観と客観が入り混じり続ける、そのループは確かに終わりがなさそうです。

だから、入眠がすんなりいかないとかなりきつくて、全然眠れない。最近はもうベッドに入ってすぐ、どっちになるかわかります。いけると思ったらいけるけど、逃したって思ったらもうずっと逃し続ける。そうなると、もう一回、入眠儀式的なのをしないと無理で。お風呂入って一回体温上げて、少しずつ体温が下がっていくタイミングで眠る、みたいなのをできたらいいんですけど2時とか3時からそんなの無理じゃないですか。だから、頼むから寝てくれって脳みそに言うんです。マジ頼む。4秒吸って8秒で吐く、みたいな呼吸法とかやっても全然ダメで。過活動になりますね。 

ーただ、それがあるから小学生のうちから日記や詩を書き始めることにも繋がった。だけど、それがあるから夜が怖かったのかもしれないですね。

それがあるからかもしれない。妄想が激しいから。だから幽霊とかお化けとか、スピリチュアルな世界との繋がりとか妄想して怖くなって。逆にそれに立ち向かおうとして、自分に対して「お前外出てみろ」みたいな気持ちになったりして。外出てみて、外で立って見回してみたら克服できるんじゃないのか、とか、その怖いものに立ち向かったらお前は強くなれるだろ、強くなれる道を見つけたのに、なんでやらない? みたいな自問自答をずっと。

ー思考ばかり巡って体は動かない。

出れないんですよ怖くて。だから動けない。自問自答を一生やってます。それがおさまんないから書くんですよね。

ーその収拾のつかない思考や感情をアウトプットしてバランスを取っている。きっと、それでもまだまだアウトプットが追いついてないんでしょうね。それって、ノートに書き綴るリリックや楽曲制作などに直結した表現として形になっていますか?

正直、最近はこの“Awich”っていう存在がだんだん、みんなと作り上げるものになってきてるから、今何を言うべきかとか、表現するべきか、何を求められているのかっていうのを計画を立てて作っているんですよ。だからその制作に時間を割かないといけなくて。じゃあ今、本当に自分の中でこの瞬間湧き出てるものを、ストレートな表現として直結できるかって言ったらそうでもなくなってきてるんです。だから眠れないのかもしれないですね。でもそれはそれでありがたいことだし、その任務をこなしてこそクイーンだと思うから。そういうジレンマって絶対あるだろうなとも思ってたし。だから、その形になっていないアウトプットはもう誰にも邪魔されない聖域みたいなところでちゃんとしてあげる。でもまだまだ自分の脳みそとか心の存在とかも解明できてない部分があって、もっと知りたいって気持ちがめっちゃ強いんだと思います。

ー自分を知りたい?

そう。自分とか、人間とはとか、生きることとはとか、苦しみとはとか、幸せとはとか、そういうのをずっと知りたいと思ってる。なんでこういう気持ちになるんだとか。もちろんそれが今の制作と全く関係ないわけじゃない。だけどマインドがワンダーというか。なんかぼーっとするっていうか、何かを考え始めたときに、「あっここに集中しなきゃ」っていうエネルギーは自分の考えと切り離すような気分になるんです。

ーそれはつらくないですか? 

つらいかもしれない。でもそれは大切に寝かしてます。

ー一度寝かすことになりますよね。

昔は詩的な表現が多かったんだけど、最近の自分の記録みたいなのは体系的になってきていて、研究者みたいな感じになってきてる。だから、逆にそれを詩的な表現に移すみたいな作業がまた加わってきてる。私はそれも大事だと思うんですけど、体系的な研究をしてわかった“自分とは何か”とか“人生とは何か”“女とは”“男とは”とかいうのがわかったとしたら、それをキーワードとして散りばめていけばいい作業なのかなとか思ったり……まだ研究中です。

 ーそれを直接的に表現するにしても、そもそも音楽で伝えるべきなのかなど、表現方法はもっと多様にあるかもしれないですよね。それこそ学術的な意味で、レポートとして出すべき内容かもしれませんし。

それもあると思います。だから音楽はあくまで一つのツールだと思ってて。今はこのプラットフォームを使って表現してるけど、それが全てだとも思ってないし。実際、今他のアウトプット方法として小説とかも書いてるんです。OZworldとかにしか見せてないけど。まだめっちゃ冒頭だし、バラバラで。断片的なものを書いてるだけで、マジで本当に誰にも読ませてないんですけど、それは自分のアウトレット(出口)としても楽しいし、いつかは出せたらいいなって思う。

 

ーAwichさんが書く小説だと、人類学的なこととかスピリチュアルな要素もあるSFとかファンタジーになりそうですよね。

そうです、『ハリー・ポッター』みたいな。SFなんです。サイエンス・ファンタジーでもありそう。人類学的なこと、ホモ・サピエンスの行方みたいな。

ー楽曲での表現というのは、あくまで一つのアウトプット手段でしかないのだと感じます。おそらく頭の中にはもっとたくさんのイメージや思考が溢れていて、音楽だけでは表現しきれない部分がまだまだたくさん眠っているんだろうなと。もちろんアーティストとしてのポジションが軸になるとは思うのですが、そういった他の表現手法も見てみたいです。

きっと見れます。でも焦らないで。焦らず。待っててください。 

ー実際、過去にも脚本を書いたりしていましたよね。ライフストーリーの本筋に戻すと、14歳の時点でもうラップを始めていて、沖縄のHIP HOPアーティストたちのコンピアルバム『Orion Beat』収録の「ジャマルヤン」にイントロで参加。その後、HIP HOPカルチャーをベースとした当時の女性ファッション&カルチャー誌『LUIRE』の企画で、ソロアーティストとして初の音源化を果たしています。

そうです、『COOL&BEAUTY』っていう女性だけのコンピに「Talk」って曲を発表したんですけど、それはマジで盤しかなくてもうどこにもデータがないんですよ。いまだにめっちゃ覚えてますけどね。「Talk to me. I’m your baby. Talk to me. Drive me crazy.」っていう始まりなんです。それしか覚えてないんすけど(笑) 

ーその時、何歳くらいですか?

その時は17とか18だと思います。その時はもうプロダクションに入ってました。沖縄でラッパーを束ねてる先輩たちのプロダクションがあって、14歳の時にその門を叩いたんです。全員、元軍人のクラブのセキュリティみたいな人たちの英会話教室に通ってたんですけど、その頃、超HIP HOPの質問しまくってたらそこの先生が「お前、ラッパーになりたいんだったらあそこ行け」って言われて行ったのが、そこのレコードショップ兼プロダクションで。それでもういきなり「私ラップやってるんですけど」って言ったら、「やってごらん?」って言われて、その場でアカペラでラップしました(笑)

ーかなり肝の据わった14歳ですよね。

その頃はめっちゃ肝据わってましたね。負けず嫌いではないけど“一度決めたらやる”って気持ちが強くて、行動に移さないと気が済まないっていう。

ーやってダメならそれでいい、という精神?

それでいい。やらないと気が済まないんです。使命感というか、何かに駆られてるぐらいの衝動。もう早くやらないと、手汗がやばいんです。とりあえずやって失敗してもいいから、とにかくやる。それでその事務所の人たちから「お前面白いな」って言われて。その頃『DMC』(世界一のDJを決める大会)のファイナリストのDJ Hinga HIGAが所属していて、彼のデイイベントのサイドMCをさせてもらってました。

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ーその頃の自分は、虚勢を張っていたと思いますか?

もちろん。「絶対やらないといけない」って感覚も「Fake it till you make it.」(アメリカのことわざ。なりたい自分の姿があるなら、すでにそうなったかのように振る舞うこと)みたいな。フェイクで強い自分とか、できる女みたいな姿を作ってるけど実際はめっちゃ根暗。その頃もずっと夜は眠れてないし、不安をずっと抱えているし。

ー演じている、に近いですね。

そう。その虚勢を自分の中で消化して、虚勢張った分絶対に動かなきゃいけない。なりたい自分を演じてるから、それに対して動かないといけない。そのせいか、人と接する時はめっちゃとげとげしかったですしね。ずっと喧嘩腰。学んでた英語もめっちゃ喧嘩腰のワードばっかり覚えて。超ナンパとかもされるから、「うざい」とか最初から相手の言うことに聞く耳を持たない、っていうアティチュードの英語ばっかり。「What the f**k?」とか。

ーコミュニケーションを取る気のない英語ですよね?

そう。けど研究心が強いから「What the f**k?」も文法からちゃんと知りたかった。「え、the f**kって、Whatっていう疑問詞の後に入って動詞の前に入るんですか?」みたいな(笑) 先生にも「そんなふうに分析してるやつはお前しかいないわ」みたいに言われてました。じゃあ「What the f**k are you talking about?」でいい? 「Who the f**k are you?」? じゃあ「the f**k」の代わりに「the hell」とかも使えるの? じゃあ「Who the hell are you?」は使えるのか。ああ、なるほど、それでパターンわかったわ。って、そんなことばっかり勉強してましたね。

ーーそれが中学生くらいの時ってことですよね? そのスタンスの頃って恋愛観はどうでした? 今と違います?

もしかしたら、その頃から最近までは一緒だったんですけど、最近変わりましたね。昔は“付き合う”とかそういうのに縛られたくなくて。もちろん恋愛は好きなんですけど、一人に縛られたくなかったんですよね。だから、もし付き合ってたとしても他に好きな人ができそうな前に言う。「私、この人を好きになりそうかも」って。

ーそれは今彼もビビりますね(笑)

私、浮気とか絶対できないんです。嘘つけないんです。だから、その前の段階で彼氏に伝えて「どうする?」って確認する。「でもあなたのことも好きだから、あなた次第です」みたいなオプションを提案してた。それでも好きって言ってくれるんだったら私も好きだよって。だけど他の人も好きになりそうって。

ー独特な恋愛感覚だったんですね。

昔はそういう感じだったけど、でもだんだん“エクスクルーシブがいい”って思える人と出会ったり、そういう風に言われるようになったりで、一人だけと付き合うっていう恋愛もしてきました。もちろん結婚した時もそうだし。でもやっぱりつらいことの方が多いって思うんです。そう思ってたんです。

ー人と向き合うことの難しさを感じた?

何が目的なのかが、わかんなくなるんです。“戦い”みたいになって“仕事”みたいになって。ずっとその執着に縛られて、自分が嫌いになるんです。私は犠牲を払ってまであなたしか見てないのに、不安にさせられるような出来事があると“自分には価値がない”とか“魅力がない”“自分は愛されていない”みたいな気分に陥って。それを拭うための話し合いも、傷つけられるような言葉を受けつつも、お互い歩み寄りがうまくいかないときって“何のために付き合ってるんだろう”ってめっちゃ思うんです。「長続きすることだけが恋愛に対しての正義なの?」って。なんで人のことを好きになって、人と付き合うことになるんだろう? って考えたときに、自分は人と出会ったときにめっちゃ世界が広がるようなこととか、モチベーションが上がることとか、自分のことが好きになるとか、相手のことに尽くしたくてエネルギーが湧いてくるとか、そういう部分を大事にしたいと思ったんです。

長い恋愛をキープするためにエネルギーを消耗するより、エネルギーが湧いてくるようなシチュエーションを自分のためにいつも用意してあげたい。その方が自分にとっては大事って思ってた時期があったんです。実際、結婚するとめっちゃ地獄だった。好きだったし、愛していたけど、心がずっと張り詰めたまま暮らしていた感じ。そして結局旦那も亡くなって、その後も何人か付き合おうと思った人はいるんですけど、やっぱり結婚のトラウマもあったし。大切な人がいなくなるトラウマもあったから、もう無理だと思ってた。

ー失う怖さですね。

色んなドラマがあったんですよ。それを経て、やっぱり奥さんとか彼女になった後に“敵”みたいになるのが嫌なんです。最初は絶対「彼女が大好き」って時期があるじゃないですか。めっちゃ脳内にドーパミンが出てる期間。それがなくなっていったら、例えば飲みの場とかで「うわ、今日彼女来るんだよね、だりい」みたいに言う人いるじゃないですか。そんなの何が楽しいの? ってめっちゃ思うんです。会いたくてしょうがないとか、あいつのために何かやりたくてしょうがない、みたいな気持ちに私はなりたいんです。そう思って、しばらくまた一人の人と付き合うのをやめてたんです。

でも最近になって、仏みたいな人と出会って、その人に私は自分の恋愛観を話して。「私は一人だけを縛ることはしません」って言ってたんです。けどその人と会ってたら、自分自身他の人と会いたいとも思わなくて。この人だけでいいかもって思えるようになって。それを伝えたら「嬉しい」って言われて自分も喜ぶけど、でもその後にやっぱりまたトラウマが蘇って不安が出てきて。「やっぱり無理かも」って伝えたら、そういう不安そのものにもちゃんと向き合ってくれたんです。それを乗り越えたら何が待ってるのかを一緒に考えてくれる。私も、もっとちゃんとその気持ちの原因を解明したくて、お母さんと話したり。自分のそういうトラウマも、自分の人生内の出来事だけじゃない部分に起因してる部分があるかもしれない、親から来てるカルマみたいなのもあるかもしれない、とか。そういうふうに、根本的な原因と向き合おうと思わせてくれるんです。そのプロセスはつらいだけじゃなくて、何か意味があること。自分の心の清浄にも繋がることって思えるようになったんです。これが、ここまでの私の恋愛ヒストリーですね。

ー気持ちや価値観も移り変わっていくものですよね。今はそういう形が素敵だと思えている。

そうです。だからスタイルで考え方を固定するのもありですけど、どういう人に出会うかによっても変わりますよね。ジェンダーのあり方とかもそうだし。逆に今まで“男と女”っていう考え方で固定されてたのは何だったの? ってくらい、今は可能性があると思うから。いろんな可能性を探ってみるのも面白いと思う。例えば私も、昔男の子だったって言ったじゃないですか? 本当に小さい頃、自分は男の子なのかなって思ったことがあるんです。男としてかっこいい仕草にめっちゃ憧れるし。でも、自分は女の子のこと好きか? って考えたことがあったんですけど、女の子を好きにはなれなかったんです。女の子に対してロマンティックな気持ちになれない。だから私、もしかしたらトランスジェンダー・ホモセクシャルだったらどうしようって。性同一性障害で体は女だけど、中身は男として生まれて、だけど同性愛として男が好きなのかもって。だったらどうします?

ーあり得ますね。

でしょ、あり得ますよ。私、結構前にそれを思ったんです。ってことは、白黒はっきりつけるもんじゃないかも。心も体もパーセンテージで決まるんじゃないかって。男っぽい体、女っぽい体、多様にバリエーションがあって、その割合のバランスが無数にある。心の性もパーセンテージで決まって、さらにその対人の性、セクシャルな性もパーセンテージで決まることだったらって思うといろんな可能性がある。だからスタイルも、じゃああなたはホモセクシャルですか、バイセクシャルですか、パンセクシャルですか、アセクシャルですか、ヘテロセクシャルですか? 決められないかもしれない。

ー分類自体がナンセンスな可能性はありますよね。

そう思います。じゃあポリアモリー(※合意の上で複数のパートナーと関係を築く恋愛スタイル)とか、一夫多妻制も流動的なカルチャーかもしれないし。その流動性こそが人間っぽいですし。他の動物のカルチャーは、絶対そういう革命が起こらないんです。ソーシャル・レボリューションはない。ゴリラのカルチャーに変革はない。でも人間にはある。あらゆる生態系の中で、ホモ・サピエンスだけが変わっていく。

ー結局のところ、愛する対象や数さえも変動し得るもの。そう考えると、出会う相手とどう向き合うか、愛を持って接していくことで、同性であれ異性であれ恋愛という形になり得るかもしれない。

そうじゃないですか。ロマンティック・オリエンテーション(※恋愛的指向)が「恋愛」の基準だと思うんです。愛って、親子も家族も愛だし、友達だってそうで、仕事の仲間とも愛がある。でもロマンティックな気分になるかが恋愛です。それがキーワードだと思ってて。

ー確かに。愛がある中でも、ロマンティックな感覚になるのは別ですね。

それを、ロマンティック・オリエンテーションって私は呼んでます(笑)

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ーそういう考えに至ったご自身の経験も伺いたいんですが、2008年、21歳の頃にはアトランタで結婚されて娘のToyomiさんも誕生。アトランタから沖縄へ移住。でもこの頃が、一番精神的には良くなかった時期だったと、いくつかのインタビューでおっしゃってますよね?

結婚してた時は、喧嘩ばっかりしてたんです。もちろん愛していたし本当に好きだったんだけど、私自身若かったし、自分の自由を奪われたっていう気分にもなってた。

ー旦那さん、厳しかったんですよね? あんまり外に出られなくなったとか。

そうです。亭主関白ではないけど“女はこうあるべき”みたいな固定観念がある人でした。だからそれに縛られて苦しくなってた。もちろんコミュニケーションもちゃんとお互いに取ろうとしてたけど、やっぱり私は若くて、すぐ反発してたし。自分の感情のコントロールが全くできなかった。今思うと、本当にただ落ち着いて考えていたらわかっていたことも“カーッ”てなって、自分の激しい感情に振り回されていたんです。それは旦那の死とは関係なしに、自分自身の問題で。

ー未熟だった?

ですね。それに相手もまだまだ若かったと思います。13歳上だったんですけど、まだ自分の感情をコントロールできないことが当たり前にあってもおかしくない年齢だと思うし。お互いぶつかり合ってました。でもやっぱり好きだから、そのアップアンドダウンをプレーしているような感じでもあって。ちょっとトキシックっていうか、毒性がある関係だったと思う。

ーそれが刺激になり、キープされている部分もあった。

そう。それって今はもう嫌だと思えるけど、周りを見ていてもそういうことやってる人たちはたくさんいて。「それが好きなんでしょ?」って、客観的に見てたら思うんですけど。当時の自分は、それに没頭してるからわかんない。でも実際めっちゃきつかった。挙げ句の果てに旦那が殺されちゃって亡くなって。その時は、めっちゃいろんな感情の渦にうなされてた。もちろん悲しいし、嘆きがあったと思ったら、次は怒りに繋がって。「なんで私たちを置いて勝手に死ぬの?」って。生きてたら殺してるわ、ぐらいの怒り、と思ったら、次の瞬間には「良かったね、あなたは自由になれたんだよ」、この世のしがらみから解放された、私もあなたを見習って解放されなきゃ、みたいな不謹慎なほどに超越した気持ちも溢れたり。そういう思考がずっと堂々巡り。元々自問自答をずっとやる人だったから、なかなかそこから抜け出せずにずっとやってしまってましたね。

ー元々の性質がより激しくなった?

より激しく。でもやっぱり、その時に助けられたのは記録することなんです。その時もいろんな想いをノートに書き綴っていたので。それがなかったら、行ったり来たりしてる道にも気付いてなかったと思うし、同じ思考の繰り返しに「もう何回目?」って気付いてなかったし。でも何度も書いて読んで書いて読んでを繰り返してるから、自分を振り返って「この時に、ここのどん底からは一回抜けてるじゃん、ってことはまた抜け出せるってことだよ」って、自分自身を分析して、大丈夫大丈夫って言い聞かせて。それを繰り返してるうちにお父さんに「お前、いつまでそんなことやってんだ」って言われたんです。

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ー旦那さんが亡くなった後、Toyomiさんと沖縄に帰ってきた頃ですね。

そう。帰ってきて、鬱状態で何にもしてなくて2年ぐらい経った時。

ーToyomiさんはその頃どんな感じだったんですか?

Toyomiはずっと私のことをかばってくれてたんです。「おじいちゃんおばあちゃん、マミーのこと邪魔しないで」って。「マミー疲れてるから、寝かしてあげてね」って。そうやってずっとずっと守ってもらってて、2年ぐらい経った時におじいちゃん=私のお父さんに「お前はいつまでそんなことやってんだ」って言われて。私はそうやっていられる権利があると思ってたから、「え、なんてこと言うの?」って気持ちだった。だけどお父さんが話してくれたのは「お前、自分だけがそうなったと思うなよ。沖縄の人は戦争で家族も大事な人も、親友も友達も全員誰かしら亡くしてるんだ。それでもこうやってみんな生きてきて、その中でお前は生まれたんだ。だからいつまでもくよくよすんな」って。ハッとしたんです。「確かに」って。

私のお父さんって、真珠湾攻撃(※1941年)の時に生まれた人なんです。だからお父さんも赤ちゃんだったけど、お兄ちゃんも親戚も何人も亡くしてる。戦後の時代を生き抜いた人で。だから、誰かが誰かを亡くすのも当たり前だった。お母さんも戦後の人なんですけど、米軍のジェット機墜落事件(※1959年)をクラった小学校の生存者なんです。本当にたくさん亡くなって、みんな窓から飛び降りて逃げないといけない、みたいな。その時のトラウマの話をしてたのも思い出して。「そうだ。自分たちのこんなに近く、自分の親がその真っ只中に生きてきて。おじいちゃんおばあちゃんももっと経験してる。そんな人たちがこんなに強く生きてるのに、私めっちゃ浸ってたわ」って。自分が浸ってた“悲劇のヒロイン”みたいなところから、立ち直ってやろうと思った。

ーその時に強く沖縄というルーツを感じて、ある意味そこに救われたんですね。

うん、完全に。私昔から沖縄のエネルギーというか、精霊的なものは感じてたんです。眠れなかったときもそうだし。なんかすごいエネルギーを無意識のうちに本当に感じてて、普通に道を歩いているときも宇宙からこの場所を見ているような感覚があったんです。ここは特別な場所だって思ってたんです。だからお父さんにそういう話をされた時は、余計にすんなり入ってきたんです。元々私はこの場所、沖縄が特別で神聖な場所だと思ってるから。そこで生き抜いてきた人たちが言うんだったら、私も絶対できるって思ったんです。

ーどういうときに自分がよりウチナーンチュ(※沖縄人)だと思いますか?

時間の管理ができないところ。ウチナータイム。

ーこの流れはポジティブな方向を待ってました(笑)

嘘(笑) じゃあこれも、ポジティブかネガティブかって言ったら表裏一体だと思うんですけど「なんくるないさ」(※「なんとかなるさ」の意)。私はこの言葉を元々根底に持ってて。元々何もないんだから、今あるもので悩んでる自分も贅沢なんです。仕事で悩めてる自分も、その時点で贅沢だからどっちを選択してもどうにでもなるんです。それが「なんくるないさ」の真理。それが誤解されがちなんです。「どうでもいい」とか、いい加減って意味で解釈されがちなんですけど。でも実際、めっちゃ深く考えるとそれこそ本当に何にもないところに命があって、それ自体がありがたいんだったら本当にどうなっても全てありがたいっていう教えなんです。だからどんなに悩んでも、そこに立ち返ってきていたから今も生きているんだと思うんです。自分の世界に没頭しがちで、自問自答を繰り返して鬱になっていた時も“死にたい”と思うことはあっても自殺未遂をすることはなかった。そこまでいかなかったのは、最終ギリギリのところで「なんくるないさ」って思えていたから、大丈夫って思えたんです。鬱になって歯止めが効かなくなって、戻って来れない人を見ると、私はこの教えを守って救われてるって思うんです。ウチナーンチュだって思います。

ーギリギリのところで支えになった教えでもあるし、色んなことに挑戦する勇気にも繋がってそうですよね。“Queen”を主張することも、昔は怖かったとおっしゃってます。

そうですね。当たって砕けろって思えます、どっちに転んでも大丈夫ですから。

ー一方で“大嫌いだった沖縄”という表現もしているんですが、それはどういうところですか?

沖縄ってめちゃくちゃ問題があるんです。今でも。私が一番嫌、っていうか、これを思うと悔しくて、重い気持ちになってどうにかしてあげたいって思うのは子供の貧困とか教育の格差。シングルマザーの多さとか街全体の貧困とか。そういうのも含めめっちゃ問題ありありの島なんですけど、そしてたぶん問題の根底にある、あの島の私が大っ嫌いなところは、真剣に何かに取り組んでる奴を見ると笑うところ。私も人に対して、やってしまってたときがあるんですけど。真面目を馬鹿にしたり、頑張ってる人に何か頼まれても断るような。「なんでそんなに熱くなってるば? 意味わからん」って。そういう傾向がめっちゃあるんです。だから、何かを変えようとしたり、頑張って群を抜けようと努力をしてる人は打たれる。それはちっちゃい時に感じた。私自身、若かったし、女だったしっていうのもあって、さんざん言われてきた。同じ土俵にも上がらせてもらえない。だからそういうところはめっちゃ嫌いでしたし、今でも同じように思っている子はいると思う。そういうメンタリティの人たちは今でもいるし、そこからその子たちが抜け出せない現実が嫌いです。だから、私がめっちゃ真剣に何かに取り組んで肚くくって、色々達成していくことで何かが変わるかもしれない。真剣に何かに取り組んで進んでいけば「俺たちも何か成し遂げることができるかもしれない」って、思ってもらえるかも。そうすることでカルマを断ち切っていきたい。

ーー折れずに立ち向かい続けてこられたのは、使命感が大きいですか?

使命感というより、今は生きてること自体ありがたいって思える気持ち。私は旦那の死以降に「もういいや、死んでもいいかも」って思っていて、その後にまたこんなチャンスが与えられたんです。マジで何も失うものがない。元々音楽も諦めてたし、この歳になってこういうことに挑戦できるってこと自体が恵みでしかないんです。そう考えたら関わってくれる人とか、聞いてくれる人全ての人に本当に感謝だし、大事にしないとって思います。それは使命感というよりは、感謝の気持ちかもしれない。それこそさっき話したように、幼い頃はめっちゃ虚勢張って、周り全員ダサいと思って、大人に何か指摘されても言うことを聞かなかった。そんな時期に挫折を経験してるから、今は何でも一回やってみようって気持ちがあるんですよね。やってみなきゃわかんないって思ってる。

ーアルバム『Queendom』で名実ともに女王として地位を確立し、2025年までにはグラミー賞を獲ると宣言もされています。6月に発表したシングル「KAGOME, KAGOME」もアジアのアイデンティティーを前面に出した作品となりました。いよいよ、日本から飛び出して世界へアプローチするフェーズに入ってきていますか?

入ってますね。そのためにはアジアも束ねないといけないと思ってるんで、アジアのアーティストやコラボレーターたちとどんどん繋がっていって、そこで生まれる何かを形にして、その先にグラミーがあると思ってるんで。大きな舞台に挑戦していくフェーズですね。

ーアジア以外のコラボの動きもお見受けしました。Phony PPLともやってますよね?

そうそう、Phony PPLとかも含めアメリカではいろいろ試している段階ですね。でもまずはアジアって思ってます。色んなアーティストと繋がっていって、曲とライブって相乗効果だと思うからコラボレーションしてツアーを回る、みたいな道筋をタイミングも含めて今みんなで調整してます。

ーここまで話してきて思うのは、Awichさんは結局ずっと逆境にいますよね。“子供だから”“女だから”“母親だから”“年齢がいってるから”と、常に逆境に立たされている。そしてこれから世界へ挑戦するときには、きっと“日本人だから”“アジア人だから”というヘイトが襲いかかってくる。

本当そうですね(笑) だからもう、常に枠から出ようとしてるからじゃないですかね。でもそうしたい理由はそもそも、そのカテゴリーなんて全部存在しないものだと思ってるから。国も人種も。自分たちでこの土地に降り立って“ここが日本”って勝手に決めただけじゃないですか。この土地に日本って書いてあった? 書いてない、自分たちで決めただけなんです。今私がしゃべってるこの音を、日本語って決めただけなんです。人種や国も、そういうふうに勝手に決めただけなものを忠実に守っていって、それぞれの生き方とかカルチャーが生まれていって、あたかもそれが元々決まっていたものかのように私たちは感じてるけど。そもそもホモ・サピエンスの歴史を遡ると、マジでなんにもないんです。ただの、ハイエナの残飯を食ってた動物なんです。それがいきなり認知革命(※7万年前にホモ・サピエンスに起きた、物事を「認知」する能力の急激な発達。状況への柔軟な対処能力が身につき、見知らぬ者同士でも協力関係を結び社会的行動を変えられるようになった)を起こして「俺たち強いかも」とか「俺たち仲間かも」とか「俺たち愛で繋がってるかも」とか言い出したから、国や言語や貨幣を決めていって全て作られた。だったら全部が虚構で作られてるから、それをそもそも人間至上主義を外して考えれば、マインドの中では簡単にそういったカテゴリーを外すことができる。それと、心とか感情とか人間がその上に積み上げてきたカルマの問題。そこにめちゃくちゃ気を取られるし心もつかまれてるから、どうやって拭っていくのか、っていう戦いだとは思います。でも一個一個それを壊していく人たちもいて、その人たちのおかげでまた新しいドアが開いていくっていうことの繰り返しだと思う。

ーそのカルマに悩まされ、自分のカテゴライズに苦しんでいる人にはどういったアドバイスをしますか?

それをきついと思うんだったら、別にやらなければいいし、やりたいんだったらやればいい。自分はこういう風なカテゴリーに悩んでいて、それをもう悩まないような幸せを手に入れたいんだ、心の穏やかさを手に入れたいんだ、って思うんだったらそのために動けばいい。このままでいい、っていうことを飲み込めるんだったら、それも悪いことだとは思わない。どっちにせよ虚構だから、どっちでもいいってことですね。

ーそういった虚構や壁を壊す存在として、Awichさんは希望を与えていると思います。

私自身がそうしたいっていうのもあるし。周りで苦しんでる人たちも見てるから、それを変えられることができたとしたら、私の人生の、ライフタイムの中では喜びとなるだろうなって思ってる。そこを私のゴールとしてちゃんと腹をくくること、それが大事なんです。それがみんなの幸せじゃないかもしれないとか、それで自分自身を失ったらどうしようとか、そういう悩みは一生悩み続けられるんです。だからどうするか決めればいいだけ。それでも一生悩みたいんだったら悩めばいい。マジでこれの繰り返しです。ずっと。答えはないです。幾重にも重なる否定と肯定のただの着物みたいなもの。それをどれだけ重ねるの? って。深く掘れば掘るほど、まだ底はありますからね。キリがないから、それを楽しむかどうか。そのどっちかなだけですね。

 

 

PHOTOGRAPHY : TOSHIO OHNO (L MANAGEMENT)
STYLING : MASATAKA HATTORI (HATTORI PRO.)
HAIR : YUKO AOI
MAKEUP : CHIHIRO YAMADA
INTERVIEW : SADANORI UTSUNOMIYA

 

*このインタビューは2022年11月30日に発売されたVI/NYL #010のために実施されました。